ハゲ・薄毛を「魅せる」社長の日記

美薄毛研究家・劣等感マーケターの松本圭司が日々感じたこと、考えたことを不定期に発信中!

失敗や間違いは犯すことは本当に悪いことなのだろうか

人間は基本的にネガティブなことを本能的に嫌がるし、避ける動物だと思う。

自分から進んでテストで赤点を狙う学生は滅多にいないだろうし、自分からコケて怪我をしようとする子供もいないのと同じように、余程のドMでもない限り、自分から仕事でポカを犯して上司に怒られようとするサラリーマンもいない。

赤点を取ること、コケて怪我すること、仕事でポカを犯すこと。これらのことは「失敗」や「間違い」という言葉に表される。

なぜこれらの失敗・間違いを人間は避けようとするのか、あるいは嫌われる対象になるのか?

それはその失敗・間違いを犯した“後に”漏れなく罰が設定されているからだと思う。

赤点を取ると進級が出来ない、コケて怪我すると痛い(あるいは親に怒られる)、仕事でポカすると昇進やボーナスに影響するなど、基本的に失敗・間違いを犯した当事者にとって不都合なことしか起きない。犯した当事者に「よし、失敗したか!でかした!」っていう先生、親、上司はまず居ない。

だからこそ、人は失敗・間違いを犯さないように、あるいは犯さないようにと避けることに集中するのだろう。

ほぼ全てといってもいいと思うが、新しく取り組むこと、あるいは能力が至らなかったことは失敗するか、間違えるのではないだろうか。

しかし、私個人としては失敗・間違いは自体は全くもって悪くない、と思う。

理由としては、失敗・間違いは何かに挑戦をしたという証明ができる。失敗や間違いは答えが分かっていないから、犯すものであるので、答えが分かっていないものにチャレンジしない限り、そもそも犯せないので、それだけで価値がある。

しかし、失敗・間違いを犯したからといって偉い訳でもない。問題はそこから先からの思考・行動にあるといっていい。

感覚として、としか言えないが、新しいことを失敗が無いまま成果を出すことはかなり恵まれているか、ツキがある場合に限る。誰でも想像すれば分かることだが、オリンピックに出場するような体操選手が何の練習もせずに一発で高度な技を繰り出すことは出来ない。その高度な技を本番で披露するには相当な練習を何カ月も前から、何年も前からしているに決まっている。きっと練習の1回目にその高度な技に挑戦したときは失敗しているはずだ。それを100回、1,000回と繰り返す中で体に技が染みついていくのだろう。

このように、失敗・間違いを犯すことは悪くないのだが、最悪なのは、失敗したところで「辞める」ところにあるのだろう。辞めるとは、考えることをやめる、行動することを辞めるということだ。つまり、失敗・間違いから何を学び・感じ取るかにかかっているのだろう。こうすれば上手く行くんじゃないか、今度はこうしてみようって思い、次回のトライアルに活かせるかが大事なのだろう。

多分こんな失敗(間違い)のパターンがあると思う:

  1. 1回目の挑戦で失敗、以上終了。
  2. 失敗→(1回目と同じ方法で)失敗→ギブアップ&撤退
  3. 失敗→(1回目とやり方を変えて)失敗→(2回目とやり方を変えて)失敗

実は、これと併せて問われているのは「失敗・間違いの仕方」なのではないかと思っている。

言い換えると失敗した際の受け身の取り方。柔道で投げられた際に打ち所が悪ければ最悪、命を失うかも知らない、しかし受け身の取り方の基本が出来ていれば命に別状はないし、試合を継続することも可能だろう。

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Wikipediaより

 

拙著「おもしろいを仕事にする」では自分の失敗話をあたかも自慢げに書いた。

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また、 「デッドボールでも塁に出る」ことについて触れた。つまり、野球でスリーアウトでゲームセットにならないようにするには、わざとボールに体を当てにいくことでゲームを続ける(挑戦を続ける)上では大事なのではないかという意味で書いた。

「失敗をして辞める」ということにならないようにするには、如何に続けられる状況を作るかということも必要だと思う。一回の失敗で立ち直れないほどのダメージを受けたら再起をはかることが出来ないのだ。

失敗・間違いを犯すことにビビることはない、と思う。むしろその後に何も学べない、動けない自分がいるのではないか、また上手くいくまで続けられない状況になるかもしれないということを心配すべきではないか、と思う。